閉塞する社会

 新型コロナウイルスの世界的猛威は改めて社会の脆弱さを知らしめている。人々の不安の増大ばかりでなく、経済基盤のぐらつき、さらには教育現場までもがゆすぶられている。「春休みを利用して海外に行ってみよう」「国内旅行で卒業の思いで作り」といった若者ばかりでなく、多くの人の行動範囲を縮小している。行動が内向きになると、必然的にグローバルなものの見方・考え方から遠ざかりかねない。さらに不安をあおる情報がネットやメディアから必要以上に入り込み、客観的状況判断が感情に負かされかねない状況である。どれが信頼に値する情報なのか見極めようとする間もなく、次の情報が押し寄せてくる、いわゆる、インフォデミック(infodemic: information +‎ epidemic)の状態が形成されている。さらに追い打ちをかけるようにメディアやSNSは過剰なまでにわれわれの感情をあおっているようにも思える。感情が土台となって状況判断する社会になると、他者への攻撃につながる恐れや、強いリーダーを求め、そこに追随する社会的構造ができないとも限らない。こうして不自由を認識することなく「自由」が奪われているというのは言い過ぎであろうか。  ここで思い出されるのが、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』である。人間の歴史は「自由」の獲得であったが、最近の諸外国での政治のポピュリズム化(既存のエリート主義を批判する一方で、大衆受けする政治スローガンを掲げて大衆の支持を集めようとする政治手法)や、新自由主義(人間にとって「自由」がもっとも大切だから、他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいとする経済政策)、そして新型コロナウイルスによる世界的経済の下降は、ドイツにヒトラー政権が誕生した時のような社会的基盤の形成を垣間見るような気がする。フロムは人々がナチズムの支配に服した要因の一つに、社会経済的問題ではとらえきれない人間の心理的要因に迫った。  家族や地域社会からの解放はある意味において「個の自由の拡大」であろうが、他者との安定した結びつきが薄れ、個人としての独立性の獲得は、一方では孤独や不安となって現れる。自由や個性を積極的に実現する可能性の低い個人は無力さの感情が高まり、集団的連帯からの解放が逆にズレとなって、重荷となりはしないだろうか。フロムは「自由からの逃避」と「権力への服従」という自由の二面性を指摘し、人間の自由から逃走しやすい性格と、強い者への依存と隷従しがちな、人間的弱さを論じた。  さらにソーシャル・ネットワークによる過剰なまでに感情に訴える情報拡散と、個人の好む傾向に偏った選択的情報収集もまた、無意識のうちにわれわれの自由を奪っているのかもしれない。すぐにグーグルで検索すれば必要な情報を入手でき、あたかも自分は物知りであるかのような錯覚によって、現代人の知性は脅かされているといっても過言ではなかろう。閉塞する社会を打破するには、知への探求心を忘れないことではなかろうか。 

参考図書:エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』東京創元社

英語&教養講座の生涯学習「まなびの広場」

ANAで勤務した後、結婚、子育てしながらの専業主婦から一念発起し英語の勉強を始めました。テンプル大学日本校の大学院で英語教育を修了した後、英国のエセックス大学大学院で社会学を修了しました。宮崎市に教室を開設しております。小学5・6年生、中・高生からシルバー世代まで対象の教室です。基礎英語から時事英語、社会を見る眼が養われる教養講座を開講しております。詳細はブログで随時紹介しております。

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