生涯学習のすすめ;「鈍刀を磨く」との出会いから
天翠社書展が宮日会館2階で開催されていた。11月24日のことであるが。私は第47回ニュース時事能力検定試験1級、二度目の挑戦のため、宮日会館に足を運んだ。言い訳がましいが、今回の受験には全く気合が入っておらず、合わせて準備不足もあり、沈んだ気持ちで受験した。試験が終わると、何かに引き付けられるかのように書展会場に足が向かった。この日は書展の最終日、閉会時間間際であった。会場奥の正面に「鈍刀を磨く」岩切天掃書家の作品が展示してあった。私の応援歌のような気がした。少しばかり萎えかけていた私の精神が力を取り戻した。退職後は「やりたくてもできなかったことをやりたい」と、私は思っていた。書道は本当にやりたいことであった。学ぶ姿勢を崩さぬ限り、そこには出会いがあり、道は拓けていくものだと思った。
鈍刀をいくら磨いても無駄なことだというが 何もそんなことばに耳を貸す必要はない せっせと磨くのだ 刀は光らないかもしれないが 磨く本人が変わってくる つまり刀がすまぬすまぬと言いながら 磨く本人を光るものにしてくれるのだ そこが甚深微妙の世界だ だからせっせと磨くのだ
『生涯学習「女性のための学びの広場」;教養講座&英語でSDGs』の看板を掲げ、教室を立ち上げた。公民館講座のような趣味的短期講座でもなく、大学の一般教養課程ほどの専門性を提供できるほどではないが、「第三の学習空間ともいうべき成人の学習の広場」になればとの思いからである。個人的な話で恐縮ではあるが、性別役割分業が当たり前の時代に専業主婦として子育てしながら、さほどの向上心もなく、およそ10年の歳月が流れていた。なんとなく空虚である、この状況をどうしたらよいものか。英字新聞を買ってみた。辞書を片手に単語レベルで行き止まり。ちっとも内容がつかめない。知識・情報に裏付けされた、いわゆる、時事的事項がわかっていないからであろう。そこで、新聞を丁寧に読むように心がけた。こうして英語力ばかりでなく、政治、経済等の幅広い分野にわたって知的関心が拡散した。年齢を重ねながら身をもって、「学んで老いずの精神」が宿ってきていることを実感している。
社会構造の変化はわれわれの生活スタイルを変容させている。科学技術の進展ばかりでなく、産業構造の変化に伴う雇用のあり方、家族の形態、集団社会から個の自立が求められる社会へ、さらに長寿社会へと、実に枚挙にいとまがないほどの変化の中で生きていかなければならない状況である。高齢者だから受け身の人生ではなく、いつまでも、いつまでも自己の成長に挑戦しながら人生を生きていく「覚悟」が必要とされる社会になってきている。大人の学習は「今」を充実させるため、学ぶこと自体を楽しむなど、束縛のない「自由に学ぶ楽しさ」を味わうことができるチャンス到来だと私は思う。
自己の狭い経験だけで、生涯学習「女性のための学びの広場」を開設したが、前途は多難であろう。しかしながら、なかなか光らない鈍刀でも、磨く本人を光るものにしてくれるという信念に私は支えられ、一筋の光明が差し込む時まで磨き続ける覚悟である。
加藤周一(戦後日本を代表する国際的知識人)は教養を自動車に喩え、性能・燃費のいい車の開発があっても、我々は「なぜ、何のために車を開発し、その車に乗ってどこに行くのか、そのことにどんな意味があるのか」ということを自問し考えられる人間になってほしい、そのことが教養ということの目的であると論じている。優れたテクノロジーが開発され高度な兵器がつくられても、しかしわれわれは戦争を阻止することができない、そこに現代の教養に問われている意味があり、ここに教養の危機があると、加藤周一は示唆しているのだと、徐京植(東京経済大学教授)は『教養の再生のために』で論じている。
阿部謹也は『教養とは何か』で、「教養」の始まりは十二世紀頃になって「いかに生きるか」という問いが実質的な意味を持つことになってからであるという。中世中頃までは父親の職業を継ぐことがふつうの人生であったが、都市が成立し、新たな職業選択の可能性が開かれていくにつれ、人は「いかに生きるか」と問いかける。これが教養の始まりだという。しかしながら農業などの伝統的職業に従事していた人びと、すなわち、敢えて「いかに生きるか」と自問する必要がない人びとを考慮に入れた「教養」の定義となると「自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のためになにができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうと努力している状況」を「教養がある」というのであると、そうであれば「教養」とは人類成立以来の伝統的な生活態度であるといえよう、と整理している。以下は同書からの引用である。
「教養があるということは最終的にはこのような「世間」の中で「世間」をかえてゆく位置に立ち、何らかの制度や権威によることなく、自らの生き方を通じて周囲の人に自然に働きかけてゆくことができる人のことをいう。これまでの教養は個人単位であり、個人が自己の完成を願うという形になっていた。しかし「世間」のなかでは個人一人の完成はあり得ないのである。個人は学を修め、社会の中での自己の位置を知り、そのうえで「世間」の中で自分の役割をもたなければならないのである」
令和元年も残すところ五日となった。長寿社会の到来によって得られた残りの人生を狭隘な自己に閉じこもっていては勿体ない。教養を重ねるという高尚な楽しみを味わう「学びの広場」になればと期待を込めながら。
参考文献: 徐京植 『教養の再生のために』影書房 2005年
阿部謹也 『教養とは何か』講談社現代新書 1997年
坂村真民詩 「鈍刀を磨く」
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