学びで人は変わる;原発で考える社会
個人的なことになるが、私は勉強することが好きだった、というわけでもなく、読書の楽しみを味わった経験があるわけでもなく、なんとなく就職し、結婚し、二人の娘を育て、いわゆる平凡な主婦であった。しかしながら娘たちが成長するにつれ、なんとなく人生に虚無感を感じ、英語の勉強を始めるようになった。このことが現在(いま)の学びにつながり、生涯学習を楽しんでいる。どこかで読んだ寓話であるが、サソリがカエルに頼む。「向こう岸まで背中に乗せて川を渡ってくれないか」と、「そんなこと言ったって君はぼくを刺すだろう」カエルがいう。「君を刺したら僕も溺れて二人とも命がないじゃないか」。しかし、サソリは川を半分くらい渡ったところでカエルを刺してしまう。なぜ?これがサソリの性(サガ)だというお話である。英語の勉強を始めてみると、スイッチが入ったように好奇心が湧いてきた。「どうしてそんなに学びたいの」と聞かれるが、性(サガ)のようなものとしか説明のしようがないのである。ありきたりで恐縮ではあるが、学べば学ぶほど自分の無知を思い知らされ、この世に享(う)けし持ち時間の有限性を実感できるようになったのは、年齢を重ねながらも、学びの姿勢を維持してきたからであろう。さて、どこから本題に入っていこうか。さて、何を、と考える。時間はどんどん流れていく。
昨日、國分功一朗先生の『原子力時代における哲学』がアマゾンから届いた。じっくり読むには、しっかりと理解するには、おそらく何十時間も私には必要であろう。取り急ぎ、今回は目を走らせ、またその時期が来たらそのときなりの読み方をすればいいと、自分を納得させる。原子力から人間存在の本質的なことを探っている、知的精神を激震させるような圧巻である。
10月の新聞記事だったと記憶しているが、読んだ時からずっと気にかかっていたことが、國分先生の『原子力時代における哲学』を購入したきっかけである。 原子力規制委員会は原発にテロ対策の「特定重大事故等対処施設」の設置を義務付けているが、川内原子力発電所(鹿児島県薩摩川内市)1、2号機はテロ対策工事が間に合わず、およそ1年間稼働停止に至った。この稼働停止期間は、火力発電で代替し、1カ月当たり原発1基で40億円のコスト増要因になるとのこと。今年12月には発電効率が高い石炭火力施設の松浦発電所2号機(長崎県松浦市)が営業運転を始めるため、九電のコストの増加幅は減る方向であるとのこと。私はこの記事に衝撃を受けた。パリ協定で、「世界の平均気温上昇を産業革命以前に比べて1.5℃に抑える努力をする」と目標が掲げられている。なお、最新の科学は、このまま気温上昇が続けば、早ければあと10年で地球は後戻りできなくなる危険があると警告している。このような緊急の事態にあって、石炭火力発電を使用してまで電力を賄う必要があるのであろうか。九電は電力を賄うことが仕事であるが、企業倫理から見ても、電力供給より、もっと重要な企業の社会的責任の観点から行動してもらいたい。そして供給されているわれわれも自分の消費行動を見直してみることが必要である。現在(いま)まさに、スウェーデンのグレタさん(前回のブログで紹介)に習って何か行動すべきであろう。では、自分はどう行動したか。家庭内の電力消費を抑えようというわずかばかりの意識が芽生えただけである。以前のブログでも紹介したが、「最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである」(芥川龍之介)。安全地帯に身を置いたまま批判するという偽善と狡知に私は自分を恥じているのであるが。 1966年に日本初の商業用原発「東海原発」が運転を開始した。原発の発電コストは一キロワット当たり5~6円と火力発電等に比べ安価であり、二酸化炭素の排出もゼロに近く、環境に配慮した電力だということもあり、これまでに五十数基が建設されてきた。しかしながら、福島第一原子力発電所の事故から、直接発電に要する低コストばかりが強調されてきた従来の原発による発電から、「社会的コスト」への注目がなされるようになってきた。事故が起こった結果、原発周辺住民の被害は甚大なものであったこと、原発の事故現場で働いている作業員の被ばく、農作物、海洋汚染、被害者補償、使用済み核燃料の処理、行き場を失っている汚染水等、これらのコストは日々増大しているのである。このように、「社会的コスト」の膨大な費用が突き付けられていながらも、原発依存の社会的体制からの方向転換への舵はいまだに切られていない。ここでも私は社会の傍観者でいるのだが。
この原子力を持つことへの脅威を1950年代から指摘しているのがドイツの哲学者ハイディガー(1889~1976)である。ここからは國分先生の『原子力時代における哲学』を引用しながら進める。 ハイディガーは1955年の講演で「自然が巨大なガソリンスタンドと化している」と指摘し、「近い将来、地球上のどの箇所にも原子力発電所が建設されうるに至るでしょう」と語っている。そして彼はこう問う。 「決定的な問いはいまや次のような問いである。すなわち、我々は、この考えることができないほど大きな原子力を、いったいいかなる仕方で制御し、操縦できるのか、そしてまたいかなる仕方で、この途方もないエネルギーがー戦争行為によらずともー突如としてどこかある個所で檻を破って脱出し、いわば「出奔」し、一切を壊滅に陥れるという危険から人類を守ることができるのか?」 彼は、「原子力の商業(平和)利用」にすでに疑問を持ち、……… そして、現実に福島の事故は起こったのであるが。
「しかし本当に不気味なことは、世界が一つの徹頭徹尾技術的な世界になるということではない。それより遥かに不気味なことは、人間がこのような世界の変動に対して少しも用意を整えていないということであり、我々が省察し思惟しつつ、この時代において本当に台頭してきている事態と、その事態に相応しい仕方で対決するに至るということを、未だに能く為し得ていないということである」。
翻って現在(いま)の社会では、我々が日々発信している情報(ポイント利用、ネットで購入、SNSで発信等)はデータ化されアルゴリズムとAIによって分析されている。コンピューターという情報機器(技術)のほうが我々を独占し始めてるこのような状況を省察し思惟し、果たして、「否」と言うことができているであろうか。
「原子技術の支配はますます勢位を高め不気味なものとなっているが、この原子技術の支配ということが、いったい何を意図して目論んでいるのかということ、それを私たちは知らない。技術的世界の意味は己自信を隠している」。
ハイディッガーが言うのは、そうした隠された意味に向けて我々が自分たちを開け放つ態度が必要だということ。技術が隠し持っている意味は、強い意志を以って一生懸命探すというより、私たちが心を開いて、それがすっと入ってくるようにしなければいけないと言う(國分先生の『原子力時代における哲学』から引用)。 ハイディッガーは今からおよそ70年前から原子力に対して強い危機感を持っていたことがわかる。
さて、次回のブログでは、なぜ原子力を使ってはいけないのかという問題に、國分先生の『原子力時代における哲学』を読みながら、本質的なところに迫ってみたいと思う。二酸化炭素を排出しないから、発電コストが低いから、政府の政策だから、電力の安定供給は経済成長や競争力に絶対だから、といったことではなく、哲学者、國分功一朗先生の哲学者としての矜持に迫ってみる。
参考図書:國分功一朗 『原子力時代における哲学』晶文社
大島堅一 『原発のコスト』岩波新書
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