「今がいちばん輝いている!」 そんな毎日を過ごしたい
6月2日のブログを最後に、はや三週間が一気に過ぎた。6月23日に「第45回 ニュース時事能力検定」1級を受験した。受験勉強にとりかかったのはブログをアップした6月2日であった。アマゾンから届いていた「2019 公式テキスト 時事力 ニュース検定 1・2・準2級 発展編」を早速めくってみた。「新聞を読む」ということは私の日常の生活の一コマ、いきなり1級でも、ひと月あればなんとかなるだろうと、高をくくっていた。合否発表は7月10日であるが、結果は火を見るより明らかである。自分の力を過信し、力の足らないことを顧みず、軽卒に強敵に立ち向かった私の挑戦はまさに蟷螂之斧(とうろうのおの)のごとく、カマキリの斧のはかないあがきであったと実感している。
1級ともなると、時系列に知識を整理しておくことが求められ、憲法、法案、地政学的社会情勢等をきちんと把握しておくことが当たり前の前提で出題されていた。実に勉強になりました。これまでの私は「新聞に目を通していた」のであり、受験を契機に早速「新聞を読む」姿勢にシフトした。
例えば、今朝の新聞を引き合いにしてみると、こんな風である。
「国賓では天皇陛下との会見などが設定される。…………安倍政権は新天皇即位後の国賓をトランプ米大統領とする方針を固め、中国側にはG20と国賓の習氏訪日を分ける年2回訪問を打診した。G20 で習氏だけを特別待遇できない。米中の国賓招待が続き、『天皇の政治利用』とみられることへの懸念もでたと、日本外交筋は語る」。 「国賓」という聞きなれた言葉であるが、なるほど、国賓とは天皇陛下との会見がなされ、国賓待遇は政府が閣議決定するということ、天皇のご公務は「国事行為」と「公的行為」に分けられ、国事行為は憲法で定められ、内閣の助言と承認に基づいた行為(首相任命、栄典授与、憲法改正を公布すること、衆議院を解散すること等)であり、「公的行為」は象徴としての地位に基づく活動となっているので、天皇陛下による国賓のご接遇は、象徴としての地位に基づく「公的行為」に位置づけられる。今朝の新聞の一つの記事からここまで知識を深めることができた。
もう一つ今朝の新聞から学んだことを紹介したい。 果たして衆議院の解散権は首相の専権事項であるのだろうか。現在の安倍政権は議会で安定した多数派を維持しており、野党によって内閣不信任案が提出されるも否決されるであろう。それでも万が一、解散という判断を首相が下したとするならば、そこにはどのような大義があるのであろうか。解散権という首相の専権事項を規制する法律は日本にはない。最高裁判所は「解散は極めて政治性の高い行為」ということで「最終的には国民の政治判断に委ねられる」と、過去の事例からの判決に至っている。「行為統治論」は、テキストの中で初めてお目にかかった言葉であるが、「国家統治の基本に関する極めて高度の政治性を有する行為(統治行為)は裁判所の司法審査の対象にならない」ということである。とすれば、解散権の行使という首相の特権が乱用されないためには、主権者であるわれわれの主権者意識を高めることは大前提であろう。「任せとけばなんとかなる」ではなく、われわれの生活には政治が密接に関わっているのである。改めて認識している。これも検定を受けたが故のセレンディピティ(serendipity:the fact of something interesting or pleasant happening by chance)であろうか。
セレンディピティは私の好きな言葉です。ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/からの引用。失敗してもそこから見落としせずに学び取ることができれば成功に結びつくという、一種のサクセスストーリーとして、また科学的な大発見をより身近なものとして説明するためのエピソードの一つとして語られることが多い。「serendipity」という言葉は、イギリスの政治家にして小説家であるホレス・ウォルポールが1754年に生み出した造語であり、彼が子供のときに読んだ『セレンディップの3人の王子(The Three Princes of Serendip)』という童話にちなんだものである。セレンディップとはセイロン島、現在のスリランカのことであるから、すなわち、題名は「スリランカの3人の王子」という意味である。ウォルポールがこの言葉を初めて用いたのは、友人に宛てた書簡において、自分がしたちょっとした発見について説明しているくだりにおいてであり、その書簡の原文も知られている。「この私の発見は、私に言わせればまさに「セレンディピティ」です。このセレンディピティという言葉は、とても表現力に満ちた言葉です。この言葉を理解していただくには、へたに語の定義などするよりも、その物語を引用したほうがずっとよいでしょう。かつて私は『セレンディップの3人の王子』という童話を読んだことがあるのですが、そのお話において、王子たちは旅の途中、いつも意外な出来事と遭遇し、彼らの聡明さによって、彼らがもともと探していなかった何かを発見するのです。たとえば、王子の一人は、自分が進んでいる道を少し前に片目のロバが歩いていたことを発見します。なぜ分かったかというと、道の左側の草だけが食べられていたためなのです。さあ、これで「セレンディピティ」がどのようなものか理解していただけたでしょう?」
さて、いかがでしょうか。学ぶことは無限にあります。今日より明日、明日より明後日。「今がいちばん輝いている!」そんな毎日を過ごしたいものです。
参考資料:朝日新聞2019年6月25日朝刊
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