「エルサレムのアイヒマンと悪の陳腐さ」から:考えることで人間が強くなる ハンナ・アーレント

 トランプ大統領の「エルサレムはイスラエルの首都だ」という一方的宣言で、パレスチナとイスラエルの関係はますます混迷している。元来エルサレムに王国を築いていたユダヤ人であるが、ローマ帝国によって滅ぼされ世界中に散らばり、ナチス・ドイツが政権を獲得すると人種的に劣等だと見なされ迫害され、第二次世界大戦では600万人ものユダヤ人が虐殺された。貨車に詰め込まれて到着したユダヤ人たちは、到着後すぐに選別され、労働力にならないとガス室に送られ毒ガスで窒息死させられた。強制収容所は軍需工場と隣接し、ガス室と死体焼却炉が併設されていた。殺害のプロセスは徹底的に合理化され、殺害効率を上げることがめざされた近代技術の粋を集めた工業的な大量殺戮であった(矢野久美子『ハンナ・アーレント』から引用)。

  アイヒマンはナチス親衛隊の中佐で、ユダヤ人を強制収容所や絶滅収容所に移送し、管理する部門で実務を取り仕切っていた。ナチスの主だった幹部はニュルンベルクの国際軍事法廷で裁かれ死刑に処せられていたが、アイヒマンは逃走していた。1960年に潜伏先のアルゼンチンで拘束され、イスラエルに強制連行されエルサレムの法廷で裁判が開かれた。アーレントはこの裁判を傍聴し、全体主義体制における道徳的「人格」の解体について考察している(ハンナ・アーレント100分de名著から引用)。

  映画「ハンナ・アーレント」は2013年に公開されかなりの反響を呼んだ。アイヒマンのように平凡な人間が、与えられた義務(ヒトラーに命じられたガス室送りの任務を徹底して遂行する)を淡々とこなしていく。そこには罪悪感や他者の立場に立って考えてみるといった視点は介在せず、「自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意思は介在しない。ただ命令に従っただけだ」と、裁判ではロボットのように繰り返すアイヒマン。もしかしたらわれわれのだれもがアイヒマンのようになる社会的状況にあるのではなかろうか。インターネットですぐに検索可能な情報化社会は、知識の積み重ねと思考することへの重要性の認識を低下させ、われわれを思考停止においやる危険性を孕んでいる。ハンナの最後の講義(映画の最終場面)で、「世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そして、この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名付けました」と、ハンナは学生に向かってメッセージを発する。「ソクラテスやプラトン以来、私たちは思考をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。人間であることを拒否したアイヒマンは人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。過去に例が無いほど大規模な悪事をした。私は実際、この問題を哲学的に考えてみました。思考の嵐がもたらすものは知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むことは、考えることで人間が強くなることです」。

  アーレント(ユダヤ人であり、アメリカへの亡命を余儀なくされた)による裁判傍聴のレポート(雑誌『ニューヨーカー』に連載された)はユダヤ人の同胞から激しい非難を浴びた。それでもアーレントは事実を語ることの大切さ、事実はさまざまな角度からの物の見方によって成り立っていることを、敢えて、われわれに伝えたかったのではなかろうか。イデオロギーや結論ありきのロジック、単純明快で分かりやすく加工された情報など、資本主義的思想(最小限の努力で最大の効果)に染まった現代社会への警告でもあろう。「考えることで人間は強くなる」というメッセージが響かなくなった社会はおしまいであろう。

  「自分の自由の放棄、それは人間たる資格、人類の権利ならびに義務をさえ放棄することである。何びとにせよ、すべてを放棄する人には、どんなつぐないも与えられない。こうした放棄は、人間の本性と相いれない。そして意志から自由を全くうばい去ることは、おこないから道徳性を全くうばい去ることである」。(ルソー『社会契約論』岩波文庫22頁から抜粋)

 参考図書:NHK100分de名著ハンナ・アーレント 全体主義の起源 

     矢野久美子『ハンナ・アーレント』中公新書 

     ルソー『社会契約論』岩波文庫  

英語&教養講座の生涯学習「まなびの広場」

ANAで勤務した後、結婚、子育てしながらの専業主婦から一念発起し英語の勉強を始めました。テンプル大学日本校の大学院で英語教育を修了した後、英国のエセックス大学大学院で社会学を修了しました。宮崎市に教室を開設しております。小学5・6年生、中・高生からシルバー世代まで対象の教室です。基礎英語から時事英語、社会を見る眼が養われる教養講座を開講しております。詳細はブログで随時紹介しております。

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