よもやま閑話 「経済成長と幸福について」
春になるとオープンキャンパスが開催されるようになりますが、私の勤務している短大も春のオープンキャンパスを実施します。各教員はテーマを決めて模擬授業を行います。「どんなテーマであれば自分に引き付けて一緒に参加してくれるだろうか」これは私が授業を準備するときの底流をなしています。今回は「経済成長は果たして私たちを幸福にする解となりうるか」にしました。いやあ、実に難しい問いです。私のcapacity(能力)をはるかに超えた難問ではありますが、大量消費社会を前提とした大量生産、メディアやネット等によって発信されるわかりやすい情報によって掻き立てられる私たちの無限の欲望、この彼方には一体どんな未来が待っているのだろうと、一考に値するような気がします。人間が人間らしく生きるということ(自己利益と他者への共感であると解釈していますが)を目指し、いわゆる人間は社会をなして存在し、社会を創造していく社会的存在と言われていますので、人間の発展を考えていくことを座標軸に考えていきたいと思います。そうすることで、この資本主義(利潤の追求が自己目的化している)に蝕まれている社会の現状が見えてくるのではないでしょうか。
「幸福」という言葉が厄介なものです。「概念は言葉に先立つ」とか、「言葉は記号にすぎない」と言われますが、幸福という概念を解釈しようにも十人十色、記号となれば無味乾燥な言葉の組み合わせになってしまいます。しかし、正解がなくても考えてみることには意味があると思います。いくつか例を挙げながら考えてみましょう。
1) お金はものを手に入れる場合の手段にはなりますが、有り余るお金は身を亡ぼすかもしれません。一方で、健康や教養や友愛や心の平静は道具(手段)ではなく、それ自体として価値があり、余剰があっても人の害にはなりません。
2) 「快楽(心地よく楽しいこと)の量が多いほどその人は幸福である」と言えるでしょうか。禁煙を試みている人が今日だけ(その連続)といって一服する、そのことはその場における快(幸福感)かもしれませんが、将来有害な影響をもたらすかもしれません。では、苦痛は幸福を遠ざけるものでしょうか。受験勉強しているその人は苦痛の連続かもしれませんが、目標とする大学に合格の知らせを受け取った瞬間に、最大限の幸福感に浸るのではないでしょうか。では、快楽の量と質の関係を考えてみましょう。「太った豚よりやせたソクラテスになれ」といったのは、ジョン・スチュアート・ミルです。彼は高級な快楽、低級な快楽両方を知った人は高級な快楽を選ぶといっています。その場限りの快楽に興じて居ると、高級な快楽を知らずに満足した太った豚になるということでしょうか。しかし十人十色、人様の幸福感は他者からは分からないということは肝に銘じておきます。じっと座ってベートーベンを何時間も聞いている人の幸福感は、じっとしていられない人にとっては苦痛そのものですから。
3) 「満足度調査」なるものがよく実施されていますが、これも数値化できない実に厄介なものだと思います。例えば毎日お肉を食べないと満足と言えない人もいれば、ひと月に一度で満足という人もいます。その基準は個々人で違います。ノーベル賞経済学者のアマルティア・センは「潜在能力」をどれだけ発揮できるかでその人の幸福をみてみようというアプローチをとりました。衣食住が足り、国家が平和な状態であれば、人は潜在能力を発揮できる機会に恵まれますが、紛争や飢餓の続く状況にある人にとっては毎日を生きるために精一杯で、わずかの恵みでも喜びとなるでしょう。人間が本来持っている「潜在能力の保証」は一国の幸福度を測る物差しの一つとしてよいのではないでしょう。
幸福に関する概念に少しは近づけたでしょうか。あれこれ一考しても、今を幸福と感じなければ、幸福の時は来ないような気がします。チルチルとミチルの青い鳥は一番身近なところにいましたから。ややもすると足元ほど見落としますので。
さて、本論に戻って経済成長と幸福との相関関係はいかがでしょうか。次回のブログで一考してみたいと思います。
前回のブログの答えは1)のみです。
こうしてブログを始めてみると、一つのブログを書くにもただ一連の文章をだらだらと書いておしまいというわけにもいかず、お客様にやさしいおもてなしのできるような、居心地のいい小さな建造物を立てていくような気持で書いております。各部分が建物の全体とうまくマッチしているか意識しながら話を進めておりますが、これも論理トレーニングになっていることを期待しながら。
参考図書:森村進 『幸福とは何か』ちくまプリマー新書
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