「書きたい」がコナトゥス(自分の存在を維持しようとする力)に働きかけて......

今回で88記事目になりました。とりとめもなく書き進めてきたブログですが、2月10日を最後にぷっつりとご無沙汰しておりました。拙い記事ながらも言葉にするという作業は、気持ちと書きたいテーマがぴったりと重ならないと、個人的には、考えを言葉にできないようです。しかしながら習慣になっていたのでしょうか。「書いていないこと」で妙に落ち着かない日々を過ごしておりました。

スピノザ(1632~77 オランダの哲学者)は自然界には完全不完全の区別も、それ自体としての善悪もなく、「組み合わせ」によってその人の活動能力を高めたり減少させたりするといっております。例えば、音楽それ自体は善くも悪くもないが、落ち込んでいる人と音楽の組み合わせはその人にとっての力になったりするであろうし、悲傷の人にとっての音楽はある意味邪魔なものになるかもしれません。「我々はわれわれの存在の維持に役立ちあるいは妨げるもの、言いかえれば、われわれの活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものを善あるいは悪と呼んでいる」(スピノザより)

コナトゥス(ラテン語)は自分の存在を維持しようとして働く力のことで、医学的に言えば、例えば私という個体の中の水分が減ると、私の中に水分への欲求が生まれ、それが意識の上では「水が欲しい」という形であらわれるといった状況になります。「書くということ」がコナトゥスとして働き、私の活動能力を高めてくれているという意味においては善い組み合わせになっているのかなあと、とりとめもなく思っております。

さて、今回の本題は「動的平衡」について少しご紹介したいと思います。生命はミクロな分子パーツからなる精密機械のようなものではなく(フランスの哲学者デカルトは生命現象はすべて機械論的に説明可能だと考え、例えば心臓はポンプ、血管はチューブのように、生物体をパーツの組み合わせとして説明した)、食物として摂取した分子が既存の分子と置き換えられ、まるで川の流れのように、身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けられているとのこと。臓器移植やゲノム編集などバイオテクノロジーの飛躍的な進歩は素晴らしいかもしれませんが、われわれは動的な平衡としての生命であるということを認識しておきたいと思います。是非とも福岡伸一先生の『動的平衡』をコロナ禍の今、一読をお勧めしたいと思います。さらに福岡先生は、デカルト的な生命の解釈への反撃として、象や豚のことを紹介しながら、動物たちは思考や意識を持たない機械ではないことを書いておられます。ここでは象についてご紹介します。象は母系社会であり、リーダーの母親を中心に雌象が共同で子育てをしているそうです。ところが象牙乱獲によって南アフリカのクニスナ地区に生存する象はたった一頭になったそうです。この母象が行方不明になったということで、探しに行ったところ、森林地帯が終わったところの断崖から大海原を見て、生まれて初めての孤独を経験していた様子であったそうです。ところが大海原の海面にはシロナガスクジラが浮かび上がり、母象と超低周波の声で語り合っていたそうです。象だけではなく、自然界は歌声で満ちている、象たちは低周波で語り合っている。ヒトはただそれが聴こえないだけなのだと。

とても多くのことを学んだ気がしております。ここ数日の私にとっての読書は善い組み合わせだったのかもしれません。

参考図書:

福岡伸一『動的平衡:生命はなぜそこに宿るのか』木楽舎 2009年

國分功一郎『はじめてのスピノザ:自由へのエチカ』講談社現代新書 2020年




英語&教養講座の生涯学習「まなびの広場」

ANAで勤務した後、結婚、子育てしながらの専業主婦から一念発起し英語の勉強を始めました。テンプル大学日本校の大学院で英語教育を修了した後、英国のエセックス大学大学院で社会学を修了しました。宮崎市に教室を開設しております。小学5・6年生、中・高生からシルバー世代まで対象の教室です。基礎英語から時事英語、社会を見る眼が養われる教養講座を開講しております。詳細はブログで随時紹介しております。

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