ウクライナとロシアの戦争;一方的な正義に偏ってしまっていた「私」は歴史を遡ってみました。日本から見た価値観、欧米から見た価値観、ロシアから...中東から...アフリカから...

自由、民主主義こそが正義と思っていた私はそうでない社会に生まれなくてよかったと思っていた。それらの国々の歴史も文化も知らずに、私の価値観だけで判断をしていた。いわゆる欧米の価値観こそが道徳的で普遍的な世界であると。

シリア、アフガニスタン、イラクなどから欧州を目指す難民の流入に苦慮しているEUはギリシャを欧州の盾とし、軍と治安部隊を国境警備隊に追加しギリシャへの入国を厳しく取り締まっている。危険な航海を続け庇護を求めてたどり着いたのに、さらに劣悪な閉鎖型の収容施設に入れられた難民がいるという。4万人余りがスラム同然の環境下で暮らしているという国境なき医師団からの報告は、人命よりも国境を優先する欧州の非人道的行為の現状を伝えている。

ロシアによるウクライナ侵略戦争はプーチン大統領の「一つの民族」思考にあり、プーチン大統領の「ウクライナへの愛情」が最大の要因であろうと多くの専門家が指摘している。欧米とは異なる東ローマ帝国からの大いなる遺産であるビザンツ文化とギリシャ正教(のちの東方正教会)を継承した独自の文化をもつ大国意識もある。ロシア ウクライナ ベラルーシは9世紀から10世紀ころに栄えた国家「キエフ・ルーシー」を祖とし東スラブ人から成る歴史的一体性をプーチン大統領は強調する。

1991年12月8日、ソ連の構成国だったロシア共和国、ウクライナ共和国、ベラルーシ共和国が「ソ連消滅と独立国家共同体設立」を宣言すると、ソ連邦を形成していた共和国は次々に独立国家共同体への宣言を出し12月26日にソ連は崩壊した。冷戦の終結は米国・西欧中心の価値観こそが勝利したという国際社会の中で、ロシアは軍事力や宇宙開発においては一流国ではあるが、政治・経済においては存在感が薄く、国際社会からの尊敬を得ることが難しくなっていた。1999年にチェコ、ハンガリー、ポーランド、2004年には旧バルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、ルーマニア、ブルガリアなどの旧東側諸国がNATOに加盟した。さらに追い打ちをかけるように2008年に欧州・ロシアを訪問した当時のジョージ・W・ブッシュ大統領は訪問先のウクライナで、ウクライナとグルジアのNATO加盟について全面的に支持すると表明した。ロシア(プーチン大統領)は、NATOの東方拡大を自国に対する脅威とみなしていおり、最愛のウクライナの加盟が承認されればプーチン大統領にとっては最大の裏切り行為であり、ブッシュ(Jr.)元大統領の発言で怒り心頭に発したであろうと思われる。

9世紀末北欧からのヴァイキング(ルーシーと称する)は交易拡大のため南下し、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を脅かしドニェプル川中流のキエフを占領し、ルーシーは次第に東スラブ人と同化し、キエフ公国(キエフ・ルーシ)現在のウクライナを成立させた。ビザンツ帝国滅亡後はロシア教会がギリシア正教を継承した。11世紀後半になると南方からトルコ系の遊牧民が侵攻し公国は分離独立し、キエフ大公国はその中の一つにすぎなくなってしまった。13世紀初頭になるとモンゴル軍(チンギス=ハンが建国)の襲来を受けキエフは占領されキエフ大公国の時代は終わった。14世紀にはウクライナの大部分はリトアニア大公国,後にポーランドの支配下に入ったが、ルーシーはいくつかの地方勢力に分散しその中でもモスクワ公国が頭角を現し、1547年にイヴァン四世はツァーリー(ロシア皇帝の称号)と称し、当時政治の実権を握っていた大貴族を次々と抑え、反対勢力に対するテロや、専制的な支配を行って雷帝(グロズヌイ)と言われて恐れられた。この皇帝専制主義からロシアのツァーリズムが始まる。イヴァン4世の死後動乱の時代を経て、1613年にミハイル・ロマノフが皇帝となりモスクワを首都とするロシア国家、ロマノフ朝が成立した。第2代ツァーリのアレクセイの時、現在のウクライナの草原でコサック(武装騎馬民)が反乱を起こし、ロマノフ朝に支援を要請した。それ以来、ウクライナのコサックはロシアとの関係を強め、1654年にロマノフ朝のツァーリに臣従することとなった。ウクライナを巡るロシアとリトアニア=ポーランド王国の戦争は、1667年に講和となり、その結果、ロシアはウクライナ(かつてのキエフ公国)の東半分とキエフ市を奪還し、領土を西方に拡張した。

17世紀後半、モスクワ大公国の君主となったのがピョートル1世。ピョートルは西ヨーロッパの国々を手本に商工業の育成と軍備の増強に力を注ぎ、北方戦争でスウェーデンを破り、バルト海へ進出し、海に面した沼地に10年をかけ都市を建設し、この街をサンクトペテルブルクと命名しモスクワ大公国の首都とした。1721年にピョートルはモスクワ大公国を正式にロシア帝国と宣言した。18世紀の後半はエカチェリーナ2世のもとでさらに領土を拡張、不凍港を手に入れるため南下政策を進めた。エカチェリーナは黒海に軍隊を進め弱体化していたオスマン帝国と戦い、クリミア半島を併合しロシア化をはかった。

1812年、ナポレオン1世は大軍を率いてロシアへの大遠征を開始した。イギリスとの貿易を禁止し、イギリスを経済封鎖し、孤立化・弱体化を狙うとともに、フランスの輸出振興を図った大陸封鎖例に反して、イギリスと貿易をしていることに対する懲罰としての遠征であったが、ナポレオン軍のモスクワ遠征は失敗に終わった。この侵略を撃退したロシア帝国は、この戦争を「祖国戦争」とよび、民族の誇りとするようになった。ロシア帝国の南下政策はさらに積極的になり、オスマン帝国に宣戦し、クリミア戦争が勃発した。イギリスとフランスの列強国がオスマン帝国を支援して参戦し、ロシアの敗北、黒海に軍艦を浮かべることすらできなくなった。しかしながら、1877年、ロシアはスラヴ民族の救済を口実にオスマン帝国に戦争を仕掛け勝利した。ロシアはセルビアなどのスラブ系国家の独立、ブルガリアの自治獲得などしたが、イギリス・オーストリアが反発し結果として、ロシアおよびスラヴ系民族の獲得範囲は大幅に後退することとなった。こうした欧州列強の干渉を受けたロシア帝国はバルカン方面で後退せざるを得ず、ロシアが海へ抜けるルートは遮断されてしまった。

その一方でロシアはシベリア鉄道の建設を進め東アジア方面への進出を強めて極東に新しい海への出口ウラジヴォストクを手に入れた。しかしながらイギリス・アメリカ・日本との対立を深めていき、1904年の日露戦争で大きな打撃を受けた。1914年には第一次世界大戦が勃発し、ロシアは、イギリス、フランスなどとともに協商国の一員として参戦し、ドイツ、オーストリア・ハンガリーなどの同盟国と戦った。ロシアの参戦理由には、「汎スラヴ主義」という考え方がある。これは“バルカン半島に住むスラヴ系民族が団結して、オスマン帝国からの独立を目指す運動”である。ロシア皇帝ニコライ2世は、この考えを利用し、オーストリア・ハンガリーに対抗して、ロシア軍総動員令を布告した。戦争は1918年まで4年以上も続いた。参戦国は社会全体を動員して戦争を遂行する総力戦となったため、国民は疲弊し、ロシアでも生活に困窮する国民が増え、また、ドイツに対する敗戦が続いたこともあって、皇帝に対する不満が高まっていった。1917年3月8日ペトログラード(旧サンクトペテルブルクのドイツ語読みからロシア語風読みに変えられ、ロシア革命後はレーニンにちなんでレニングラードへ、ソ連崩壊後はロシア帝国時代の名称サンクトペテルブルクに戻る)で、食糧配給の改善を求めるストライキ「パンをよこせ」だけでなく、「戦争反対」や「専制打倒」が叫ばれ皇帝ニコライ2世によるロシア帝政は幕を閉じた。その後戦争反対を唱えていたレーニンが権力を掌握し大戦からの離脱を目指し、1918年3月、ドイツなどと単独で講和する、「ブレスト・リトフスク条約」を結び、第一次世界大戦からの離脱を実現したが、ソヴィエト・ロシアは旧ロシア帝国時代の領土を大幅に減少(ポーランド、バルト三国、フィンランド、ウクライナなどを放棄)させた。ウクライナは、一大穀物生産地なのでロシアにとっては大きな損失であった。1922年になって、ロシア、ベラルーシ、ウクライナ、ザカフカース(グルジア、アルメニア、アゼルバイジャン)の4つの共和国が連合してソヴィエト社会主義共和国連邦を構成するロシア共和国となった。

1941年6月に独ソ戦が開始された。ヒトラーが独ソ不可侵条約を一方的に破棄して、ナチス・ドイツ軍を一斉に侵攻させ、ソ連は再びモスクワ陥落の一歩前まで攻め込まれた。しかしこのときもソ連軍は緒戦の敗北に耐えて、最終的にはドイツ軍を撃退した。2700万とも言われる膨大な犠牲を払ってナチス・ドイツの侵略を撃退したが、スターリンはこの戦争をナポレオンの侵略に対する「祖国戦争」になぞらえて「大祖国戦争」と名づけ、民衆のナショナリズムを鼓舞して、国家一丸となって戦った。プーチン大統領はウクライナへの侵攻をナチスに対する闘いと称し、全体主義、軍国主義のナチス政権を打ち負かしたという「大祖国戦争」を掲げてロシア国民のナショナリズムをあおっている。

第二次世界大戦では同じ連合国側として戦ったアメリカであるが、戦後は対立を深めるようになり、ソ連は東欧諸国に影響力を強め、ポーランド、ハンガリー、ルーマニアなどで、社会主義政権の樹立を支援し勢力圏を拡大させていった。一方アメリカは「マーシャルプラン(ヨーロッパ経済復興援助計画)」を発表し、戦争で疲弊したヨーロッパ諸国に経済援助をすることで、ソ連の影響力の拡大を阻止しようとした。こうして、西側の資本主義陣営と東側の社会主義陣営とが敵対するようになり「冷戦」の時代に入っていく。1949年アメリカなど西側諸国は軍事同盟「北大西洋条約機構(NATO)」を結成、一方ソ連は1955年、軍事同盟「ワルシャワ条約機構」を結成した。両陣営は次第に核兵器の開発に進んで行き、世界は軍拡競争の時代へと入ってきた。次第に米国、ソ連ともに軍事費の増大で財政が圧迫されるようになっていたが、資本主義による経済発展を推し進めていたアメリカが経済力において圧倒的優位に立ち、社会主義国の国々では共産党政権が相次いで崩壊していった。1991年、ソ連は15の国に解体され、ロシアが国連の常任理事国となった。

カスピ海に面した小さな国であるチェチェンは、日本の四国ほどの大きさでイスラム系住民が中心の共和国であるがソ連崩壊後はロシア連邦として組み込まれるはずであった。しかしながら1991年に独立を宣言するとロシアとの武力衝突になった。一旦は和平合意に達したものの自治ではなく完全独立を主張し、再び独立運動が激化した。ロシア軍の指揮を執ったのがプーチン首相(2000年に大統領になる)で大規模空爆によって壊滅的打撃を与え力でねじ伏せ、現在ではプーチン大統領に忠実な武装勢力のカディロフ首長が支配している。

ウクライナも1991年に独立を宣言した。親ロシア派と親EU派が交互に政権を取っていた。2010年に親ロ派のヤヌコビッチが大統領になり、EUとの融和的政策を進めていたが、ロシアからの強い圧力を受け、大統領はEUとの協定の署名を取りやめた。これに反発した親EU派による大規模デモが起こり治安部隊との大規模衝突に発展し、抗議運動の激化を受けてヤヌコビッチ大統領はロシアに逃亡した。2014年のこの政変はマイダン(キエフの独立広場)革命と呼ばれ、その後の親欧米政権の発足で、東部と南部で親ロ派の抗議運動が広がり、ロシア系住民が人口の6割を占めるクリミア自治共和国ではウクライナからの分離運動が起こった。ロシアが軍事介入し、住民投票でのロシア編入支持を受け、14年3月にロシアへの編入を強行した。この時、ロシアはルガンスク・ドネツク2州(併せてドンバス地域)を実質占領している。G7(米国・英国・フランス・ドイツ・カナダ・イタリア・日本)はオランダのハーグで緊急首脳会談を開き、ロシアに対する経済制裁強化と主要8カ国(ロシアを含めたG8)の枠組みからロシアを除外することを決定した。

グルジアはコーカサス地方と呼ばれる黒海とカスピ海に挟まれた地域にある国で、面積は日本の1/5ほどで、紀元前からこの土地で暮らしている民族からなる。他民族からの支配の連続で、19世紀になるとロシア帝国に併合されていたが、ソ連が崩壊すると、共和国として独立した。国内にはグルジア人、オセット人、アブハズ人など多様な民族が居住しており紛争の火種を抱えている。グルジア領内の親ロシア派地域への影響力を堅持するため、プーチン大統領は軍事介入をし、ロシア軍の駐留で一部をロシアへの緩衝地帯にしている。このような状況もありグルジア政府は、ロシア語読みのグルジアから英語読みのジョージアに呼称を変更するよう各国に要請した。親欧米よりのジョージア政権はNATOに加盟を希望し、領土と主権の保持を維持したいが、ロシアの軍事的圧力を無視することはできない状況である。

ソ連崩壊後のロシアは国営企業から市場経済にうまく移行することができず、ハイパーインフレで国民生活は困窮を強いられた。このような状況下、2000年5月、プーチンは「わがロシアは繁栄し豊かで強く文明化された国になる」と、モスクワのクレムリン宮殿で「強いロシア」を宣言し、大統領に就任した。プーチン大統領はロシア国家衰退に歯止めをかけ、米国や中国、欧州連合(EU)、東南アジア諸国連合(ASEAN)などと多極的世界の一極を担うべきだと考えて融和を期待していたが、NATOの東方拡大は進んで行った。経済においては、豊かな石油・ガス資源を欧州にパイプラインで輸送して経済成長を加速させ、ソ連崩壊後の1990年代の深刻な経済・財政危機を脱した。しかしながら、バルト海を通ってロシアとドイツを結ぶパイプライン・ノルドストリーム2の建設には米国からの圧力もあり、ロシアと米国の対立の象徴にもなってきた。

ウクライナへのプーチンの戦争は決して正当化してはならないが、ロシア帝政からソビエト社会主義共和国連邦までに築いてきた300年もの歴史を見ると、欧米とは異なる独自の文化をもつ文明大国としてのプーチン大統領の矜持が次第に傷つけられてきたこともあるかもしれない。市場経済の拡大、冷戦終結後は西側諸国によるシリア、イラク、アフガン、旧ユーゴスラビア等への軍事介入、自由や民主主義こそが普遍的価値であるという西側諸国の正義、NATOの拡大などなど。この侵略戦争になるまでに、どこかに糸口はなかったものであろうか。「戦争を始めるのは政治家であり市民ではない」とスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(「戦争は女の顔をしていない」)がどこかで言っていた。米国を中心とする文化的価値観にロシア的なる価値観を形成することで共存することはできなかったのであろうか。経済力と軍事力に依存するのではなく、それぞれの国の文化的価値観を認め合っていけるような社会はもう理想に過ぎないのであろうか。

参考資料:世界史の窓




 


英語&教養講座の生涯学習「まなびの広場」

ANAで勤務した後、結婚、子育てしながらの専業主婦から一念発起し英語の勉強を始めました。テンプル大学日本校の大学院で英語教育を修了した後、英国のエセックス大学大学院で社会学を修了しました。宮崎市に教室を開設しております。小学5・6年生、中・高生からシルバー世代まで対象の教室です。基礎英語から時事英語、社会を見る眼が養われる教養講座を開講しております。詳細はブログで随時紹介しております。

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